中津が記された最古の西洋図。『人物と交流 Ⅲ』 中津市歴史民俗資料館 分館医家史料館叢書 XIII、中津市教育委員会、2014年、79~83頁。 The first Western map showing the place-name Nakatsu. In:

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中津が記された最古の西洋図。『人物と交流 Ⅲ』 中津市歴史民俗資料館 分館医家史料館叢書 XIII、中津市教育委員会、2014年、79~83頁。 The first Western map showing the place-name Nakatsu. In: Personalities and Exchange III (Nakatsu Municipal Museum for History and Folklore, Medical Archive Series No. 13),

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         - 79 -  ヨーロッパにおける日本図の歴史はマルコ・ポーロの「東方見聞録」に基づく想像図に始まる。一六世紀まで「ジパング」は「カタイ」(中国)の東に位置する、一つだけの大きな島だった。一五四九年にイエズス会士サビエルが鹿児島に上陸し、やがてサビエルの呼びかけに応じた宣教師たちが次々と来日した。彼らはいわゆる「行基式日本図」を入手し、より日本の実情に近いイメージを伝えた。ルイス・ティシェイラ( L  ui   s T  e i  x e i  r  a  ,  生没年不詳)、イグナシオ・モレイラ( I   gn a  c i   o M or  e i  r  a  , 1  5  3  8  ―  ?  )、ベルナルディノ・ジンナーロ( B  e r n a r  d i  n o G i  nn a r  o , 1  5  7  7  ― 1  6 4 4  )、アントニオ・カルディン( A n t   oni   oF r  a n c i   s  c  o C  a r  d i  m , 1  5  9  6  ― 1  6  5  9  )、マルティーノ・マルティーニ(  M a r  t  i  n o M a r  t  i  ni   , 1  6 1 4  ― 1  6  6 1  )らイエズス会士による日本図は広く流布しており、一七世紀の地図制作者に大きな影響を与えた。これらの地図は宣教師の関心を反映し、主要都市並びに佐渡、石見などの金銀山のほか、優れた学問や社会的影響力で際立っていた「  N  e  g or  o (根来[寺])」、「  C  o y a  (高野[山])、「 F i   y e i  z  a n (比叡山)」なども記載されている。 図一 「ジパング」 (Libro Di Benedetto Bordone, [Vinegia: Nicolo Zoppino], 1528) 中津が記された最古の西洋図 ミヒェル・ヴォルフガング  - 80 -  一六〇九年に日本に商館を置いた東インド会社のオランダ人(紅毛人)は、なかなかこれらの南蛮系日本図を超えるものを作成できなかった。一六四三年に東インド会社の探検隊が蝦夷地まで航海し、東北地方の海岸地域を船から調査したが、「 Y  e z  o 」の全貌や日本海側の様子は依然として不明のままだった。一八世紀まで、地図制作者は石川流  宣 ぶ 「日本海山潮陸図」など日本の刊行物を参照せざるを得なかった。「内地」については、南蛮系地図の地名に、出島オランダ商館長一行の毎年の江戸参府時に記録したものが付け加えられた 1 。 オランダ人がよく利用した長崎街道や東海道の宿駅、瀬戸内海の主な島々や港は記載されているが、彼らの活動範囲から外れていた「ナカツ」という地名は一九世紀になってようやく登場する。一八二六年、江戸において中津藩主奥平昌高と親交のあった出島商館医シーボルトが、入手した一連の地図などに基づいて、かつてなく充実度の高い日本図を作成し、一八四〇年に刊行した 2 。この「日本人の原図及び天文学的観察による曰本帝国図 3 は、「  N  a k  a  t   s  u 」が記載されている一九世紀の西洋図のうちでは間違いなく最も古いものであるが、筆者が古日本図における地名のローマ字表記を調査したところ、日葡交流時代の一六一七年に発表された遙かに古い地図に「  N  a  c  a  t   ç  u 」の記載を確認できた。 地図の上部に「 I  A P  O  N I  A  」と記載があり、右下の解説文に「  N i   p p on 」とその意味、列島の構成(三つの主要島と数多くの小島)、「州」の数などが紹介されている。発行地はローマで、印刷許可を出した「上司」は教会の上層部である。 I  A P  O  N I  Æ |  R  e  gi   o ,  q u a mi  n d i   g e n æ N i   p p on , h  o c  e  s  t   ,  pr i  n c i   pi   um S  ol  i   s  a  p p e l   :    |  l   a n t   ,  t  r i   b  u s  pr  æ c i   p ui   s i  n s  ul  i   s  ,  pr  æ t   e r m ul   t   a  s  a l  i   a  s mi  n or  e  s  a  d i   a  :    |   c  e n t   e  s  c  on t  i  n e  t   ur  . D i   vi   d i   t   ur  a  b i   p s i   s i  n 6  6  pr  o vi  n c i   a  s  ,  q u a r  um |   pr  æ c i   p u a m c i   vi   t   a  t   e m e  t  n um e r  um d i   s  t  r i   c  t   umi  n s i  n g ul  i   s  a  p p o :    |   s  ui  m u s  S  ol   umf   e r  a x ,  e  t   a m œn um pr  o p t   e r f  r  e  q u e n t   e  s  pl   u :    |   vi   a  s  . . .  |   . . .A nn oD  omi  ni   .1  6 1  7  . X  p [  i   s  t   ]   o ph  or  [   u ]    s  B l   a n c  u s f   e  c i   t  R  om a  e  S  u p e r  m  .  p e r mi   s  . 4 この地図(四二・〇x六六・五糎)は印刷物であるが、現存しているものは一九八五年にロンドンのオークションに出品された一枚のみである。その特徴及び西洋の日本図の歴史における位置づけについて、古地図の収集家兼研究者として国際的に名高いジェイソン・C・ハバードが、数回にわたり詳細に分析している。 地図の彫刻師でフランス人のクリストフォロス・ブランクス(  C h r i   s  t   o ph  or  u s B l   a n c  u s  ) 5 は、一五九五年から一六一七年頃にかけてイタリアで宗教関係の版画を制作・販売していた。上記の日本図は、一五九〇年イエズス会の巡察師ヴァリニャーノ( A l   e  s  s  a n d r  o V  a l  i   gn a n o , 1  5  3  9  ― 1  6  0  6  )と共に来日したイグナシオ・モレイラ神父の記録をもとにしており、  - 81 - 図二 ブランクス「日本図」に見られる九州地方 (一六一七年刊)  - 82 - 日本全国六六カ国など様々な情報を初めて伝える、当時の最も正確なものである。ポルトガル語に基づく表記は日本語の発音を忠実に反映している。イエズス会が豊前国の「  N  a  c  a  t   ç  u 」に注目したのは偶然ではなかった。九州平定後の天正一五(一五八七)年、豊臣秀吉の家臣黒田官兵衛(洗礼名シメオン)が豊前国の中の六郡を与えられて間もなく、山口からペドロ・ゴメス神父( P  e  d r  o G  ó m e z  , 1  5  3  5  ― 1  6  0  0  )を招き、三月二〇日(西暦四月二七日)に復活祭を祝った。その際、官兵衛の長男・長政、府内城主大友義  統 むね (一五五八~一六一〇)や岐部城の最後の城主・岐部左  近 ん 太  夫  一 ず 辰 ぶ らが洗礼を受けた 6 。同年六月一九日(七月二四日)、秀吉は突如として 「   バテレン追放令  」  を発布したが、その後もしばらく中津教会の繁栄は続いていた。慶長五(一六〇〇)年には、黒田官兵衛の息子・長政の招きでグレゴリオ・デ・セスペデス神父(  G r  é  g or i   o d  e  C  e  s  p e  d  e  s  , 1  5  5  0  ― 1  6 1 1  )が中津に居を定めた 7 。神父の居住地( r  ê  s i   d  e n c i   a  )となったことで、中津は重要な布教拠点に昇格した。しかし、一六〇〇年に正室明智玉子(洗礼名、ガラシャ)と共に中津に入城した細川忠興が、一六一一年のセスペデスの死去を機に徳川幕府の意を受け、領内でキリシタン弾圧を行うようになった。一六一二年四月に中津教会の建物が破壊され、イエズス会の誇りと希望の表象でもある上述の地図が発表された一六一七年まで、中津・小倉地方で数多くの信者が命を落とした。 一七世紀のヨーロッパで刊行された日本教会史のうち、イタリア人イエズス会士ダニエロ・バルトリ( D  a ni   e l  l   oB  a r  t   ol  i   , 1  6  0  8  ― 1  6  8  5  )の『日本イエズス会の歴史』(一六六〇年刊)は比類なく優れた書である。第四巻(「将軍様の帝国」)に現れる「  N  a  c  a  t  z  u 」は、一六一八年二月下旬の殉教悲話の舞台 図三 小倉、豊前、中津
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